■フラメンコ・インタビュー ◆フラメンコ・インタビューに関する記事

2011年新年早々フェルナンド・ヒメネス、ノノ・ヘロ、アンドレス・デ・ヘレス、3人のフラメンコなヘレサーノ達がドカーンと来日!
フラメンコな家に生まれ、これまで数々の大御所達と共演してきたプーロ・プーロな面々。
家族の事、子供時代の事、丸ごとフラメンコな人生を3人が語ってくれました。

インタビュー:2010年11月11日
インタビュー・訳: 秦 晴美、  写真・編集: 堀江 啓子
  2011年1月26日~30日、大阪にて3人によるクルシージョとライブ開催。詳細はStudio Al Surホームページにてご確認ください。  
     
 
踊り フェルナンド・ヒメネス
アンドレス・カブラレス・メサ”アンドレス・デ・ヘレス”
ギター アントニオ・カラスコ・サンタントン ”ノノ・ヘロ”
 
     
 
会場 スタジオアルスール
住所 大阪市中央区南船場2丁目8-15
連絡先 06-6262-5539
Studio Al SurホームページURL
  http://www.studio-alsur.com/
 
ー 今回日本に行くにあたりどんな心境ですか?
Nono. 生まれて初めてこんなに遠い所に行くのでワクワクするよ。 それに、そんな遠い場所で僕たちのすることが深く心に届いているのかと思うと クラスをする意欲が湧いて来るんだ。
Fern.  僕もノノと一緒で、とっても楽しみにしているよ。 僕のバイレ、プーロ・フラメンコを伝えられることが本当に嬉しいな。
And.  僕もすごく幸せに思ってる。そして僕にとっては重要なことなんだけれど、 日本という国、日本人にはフラメンコを深く感じることができる何か特別なものがある気がするんだ。 もちろんフラメンコはすべての人に向かっているんだけれどね。それに、日本人からはフラメンコに対する大きな尊重を感じるし。今回の第一歩で日本への旅が続くことになるといいなと思うよ。
Nono.  とても遠い国にも関わらず、日本人の習慣で僕たちととりわけ結び付くものがあると思うんだ。それは彼らの家族というものの重要性なんだけど、ヒターノやアンダルシアの昔ながらのものと似ているように感じるんだよね。そんな家族の在り方の相似性は、一見フラメンコと関係ないようで実はとても深い関わりがあるのではと思うんだ。
And.
Fern.
そうだね。フラメンコの歴史上1930年から1940年代の、マヌエル・トーレやチャコンの時代に日本人が来たことも偶然ではない気がするよね。その後何か強い共感でたくさんの日本人がフラメンコのためにスペインに来るようになって、びっくりするのはその愛好心と理解だよ。でも、それでこうして今回縁があってこのグループで日本に行けることになったんだからね。しかも3人とも初めてでさ。だからこそ僕らが日本で伝えることができるプーロ・フラメンコ、プレサ(純粋性)というのがあると思うので、是非それを感じていただきたいと思う。
ー では、皆さんにとってプーロ・フラメンコ、プレサとはどんな感じですか?
Nono. 僕にとっては、まず四季を通した普段の何げない当たり前の生活から生まれるものだな。そんな生活の空気感が、シンプルなフラメンコで表現されることかな。例えば僕は世代的にも現代っ子でモデルノ・フラメンコも演奏するし、テクノロジーにも興味があって世界の音楽もまじえたりするけれども、それでもカンテ・プーロを聞くときにはそれに専念するんだ。そこに何か新しいものが影響するのは好きじゃない。カホンもパーカッションも何も要らない。つまり、カンテ・プーロとギターとバイレ。この3つが影響しあうことで生まれるもの。
And.  昔ながらの形で、ということだね。
Fern.  そこがプーロ・フラメンコ、プレサの根源だよね。
And.  そう。それはつまりどんな風にフラメンコが始まったか、というところだね。僕はほかの2人よりもかなり年上だけれども、小さい時から洗礼式とかサンティアゴのヒターノの結婚式とかいろんなところに行くとさ、
Nono. カホンなんかないもんね。
And.  そう!そういう僕らが育ってきたころの昔ながらのシンプルなフラメンコの中にあるよね。
フラメンコは何と言っても生き方そのものだからね。今朝起きたら、昨日と違ってどんな感じで目覚めて、髪を整えたら今日はこんな風になって、でも自分のやり方で、、、というような。それがシンプルなフラメンコとして、唄うときに自然ににじみ出るんだね。
そんなフラメンコが大好きだな。それが僕にとってはプレサと言えるよ。
ー 皆さんのプレサを豊かにしてきたであろう幼少時代のことを聞かせていただけますか?
Fern.  まさしく家だね。午後にコーヒーを飲みながらおじいちゃんたちが唄って踊っては小さな僕に少しずつ教えてくれて、その後は洗礼式やら結婚式やらクリスマス、誕生日などで事あるごとに踊る機会を増やしてきたよ。
Nono. それとか例えばほら、道で偶然友達とつるんでる叔父さんに会ってさ、「ちょっとここで踊ってごらんよ。」って言われて踊ったら、「じゃあ小遣いな。」って20ドゥーロ(約90センティモ)くれたりするんだよね。それで駄菓子屋さんに行ったりね。
そういう風に少しづつすごく自然に学んできたな。
Fern.  それが普段の生活の中の嬉しいこと、悲しいことを表現する僕らの方法で、それぞれの心の中にあるものが自然に唄や踊りに出てくるんだってことをそうやって知ってきたんだ。
ー だから、一見とてもシンプルに感じる同じレトラ、同じような振り、同じファルセータなのにへレスのブレリアは何回でも見たり聞いたりしたくなりますね。
Nono. 形(レトラ、振りやファルセ-タ等)は道具みたいなものなんだ。重要なのは目に見えない、感じるものなんだよね。
カンテは言葉と声というコミュニケーション手段をとりながら、言葉に魂を込める力によって人の心に届くので、毎回同じレトラを唄ったとしても、毎回の気持ちの揺らぎでとても違ってくるんだ。だからカンテがないとだめなんだよ。例えば誰かがシギリージャをカンテなしで踊るのと僕がシギリージャを唄うのを比べると、唄が断然誰かの心に響くのは目に見えてるもんね。
バイレとギターは目の前で感じるカンテを体の中に通すことで初めて表現できるからね。
And.  その通りだね。 
カンテ、バイレとギターの結合というのはそういうことだよね。
Fern.  だってバイレとギターはその瞬間のカンテに対するそれぞれの感じ方が形になったものだからね。
Nono. カンテによってバイレとギター3人が伝えたいことがはっきりするんだ。
僕たちはそのことを実感するからカンテ、バイレ、ギターでのフラメンコをする時、お互いがなくてはならない存在となり、その時出てくるカンテでその瞬間のバイレとギターが生まれていくんだと思うよ。
ー 今までで皆さんのフラメンコに大きく影響を与えたと思う人はいますか?
Nono. カンテの大家たちと父親だな。とっても小さい時からフィエスタ・デ・ラ・ブレリアには毎年行ってた。というのも、父は1970年後半くらいから毎年エル・トルタ、カプージョ、マカニータなどなどと出演していたからね。そうするうちに僕は舞台の父の姿を見て、その時のフラメンコに感動して「あそこにたどり着きたい。」と思ったんだ。
(小さな頃)毎日どんな風に過ごしてきたかっていうと、家で弟と毎日喧嘩しては母親に「あんたたちいい加減にしなさいー!お父さんの部屋に二人で行ってなさいー!」って叱られて、父親のとこに行ってギターを聞きながら泣き疲れて眠ってしまうような感じだったので、父の影響がとても大きい。
And.  僕は、家族にフラメンコ・アーティストが一人もいないけど、カンテ・ホンドを唄う多くのヒターノ達が住むチクレ地区に生まれ、祖父がすごいカンテ愛好家だったので祖父の影響だな。それからカンテに強く影響を受けたというと、アグヘータ・ビエホ。マヌエル・アグヘータの父親だよ。目の前で聞いた彼のカンテ・デ・ラ・フラグア(マルティネーテ、シギリージャ、コリード・ヒターノ、トナー)やカルセレーラ(カンテ・デ・カルセル)は忘れられないよ。彼はフラグア(鍛冶屋)だったので、職業病ともいえるぜんそく持ちで、咳をしながら唄ってたけど彼のペーナがしみじみ小さい僕の心にも届いてきた。
Fern. 僕にとっては僕の叔父、エル・モノ、ホセ・バルガスだな。偉大なるアーティストだったからね。偉大なカンタオールだったけどさらにアーティストだったんだ。
ー さらにアーティストだった、というのは?
Fern. ただ唄を唄って表現するだけでなく、すごいアルテで踊りでも表現できるんだ。彼全体で彼の中にあるものをとりわけブレリアのコンパスにのせて表現できるんだよ。そしてなんといってもおばあちゃん!ティア・アニカ・ラ・ピリニャーカからもすごい影響を受けた。毎日毎日彼らの踊りや唄に触れながらね。つまり家全体だな。生の喜びから死の悲しみに至るまで、その都度家族で唄って踊っては祝って喜んだり、泣いて悲しんだりしてきたからね。それがともに感情を分かち合う手段なんだ。だから僕が踊るときは、心の奥を強い気持ちがぎゅーっと掴んだときでとても必然的なんだよ。頼まれるから踊るのでもなく、踊らなければいけないからでもないんだよ。
Nono.  僕のおじいちゃんが死んだ時、父は仕事に行かなければいけなかったんだ。きっととてもつらかったと思うよ。でも、その時の父の演奏は本当に素晴らしくて祖父の死の悲しみがさらに何かを伝えたのだと思う。
フラメンコが職業であるということは何かに属せる安定感はないけれども、強い感情にとらわれてもそれが実となるメリットがある。僕の場合ちょっと問題があるかもしれないけど。っていうのも、傷つきやすくて感受性が高いので、カンタオーレスとの伴奏の仕事の時、Ole!というときはだいたい涙も流れちゃうんだ。それがフラメンコって言ったらそうだけどね。。。ほかの職業ではさ、例えばペンキ塗りをしていて感動して泣いてしまうというのは難しいもんね。気持ちと連動してる、つまりフラメンコはそれぞれの実感を伴った経験の表現なんだ。
家で普通にテレビ番組を見ていたら、急に父が入ってきて(カンテを)唄い始めたとか、(その状況を)経験しなきゃ。もちろん経験する事無しにうまく説明する事はできるし、その意味を理解してはもらえると思うけれど僕が感じたことを同じように”感じる”ことは難しいでしょう。
And.  だからこそ、今回僕たちのフラメンコを日本の人たちに感じてもらえることはうれしいね。僕たちの中にある数々の経験がどんな風にプーロ・フラメンコで僕らから瞬間的に生まれるのか、そして皆さんの中にある何かがそれを共感してくれたらとても幸せに思うよ。その後、もしへレスに来てもらえたら、さらにその感覚を豊かにしてもらえるんじゃないかな。
Nono. それとかこちらの生活を経験してもらえたらその後子供にね、ブレリアを唄ってあげたりして。 ”Amante pajarero me ha traio un loro~”とかね!そしたら子供が「アリガト、アリガト。」って日本語で言うんでしょ?(笑)
And.  「オーキニ。かもね。」(笑)
ー (笑)日本語が出てきましたが、何かほかに日本のことをご存知ですか?
Nono. ”寿司”。とってもおいしいねー。
それとなんていうんだっけ、緑の、、、。
ー わさびですか?
Nono. そうそう、それもつけてみたよ。
ー 涙が出てきませんでしたか?
Nono. 泣きながら食べておいしかった。
And.  ぼくは”ヤキトリ”も知ってるよ。
Los3.  日本のことをもっと知りたいな。習慣、文化も含めてね。僕たちが知っている情報では、日本人はとても健康的でそれが羨ましいよ。あと、人にもよるかもしれないけれど一般的にきちんと感謝をする丁重な国民性じゃない。素晴らしいね。
Fern.  あとはGoogleで知ってるよ(笑)大阪の道も見たし空港も見た。そういえば夜の街のイルミネーションがきれいってほんとかな?
ー 夜の街には確かにイルミネーションがありますね。
And. 僕は写真でお寺も見たよ。あ、武道場も見てみたいね。(笑)
ー では最後に。 今回の日本のクルシージョ、ライブではいつも3人の カンテ、バイレ、ギターが在る特別な形ですが、 なにか日本の皆さんに伝えておきたいことアドバイスはありますか?
Fern. 僕が唯一伝えたいことはこのクルシージョが全くアカデミックなものではなくとにかくプーロ・フラメンコを感じてもらうためのもので、いつも3人心をこめて行うので心配しないで受講してもらいたいことだな。僕たちの体と心の一番内奥から湧き出てくる感覚を皆さんに体感していただけるのではないかと思うよ。ライブに関しても、僕たちは習って学ぶフラメンコと反対のフラメンコなので、3人の人生を通して息づいたフラメンコを、そして多くのフラメンコライブのような用意されたものではないその瞬間だから生まれるプーロプーロなフラメンコをお届けしたいと思うよ。そんな、僕たちが切望するフラメンコはアンダルシアでさえもすごく失われてきていて寂しいんだけれど、でもそれを日本の方たちに見てもらうんだという強い自覚を持って日本に行くからね。
Nono.  僕のアドバイスは、感覚の窓を開いて受けてもらうことだな。注意して僕たちがすることを見るだけじゃなく、感じてもらって「あれ?」と思ったらわからないことを恥ずかしがらずにどんどん質問してもらいたい。質問することできっとそのあと「こういう感じなんだ!」というところにたどり着いてもらえると思うんだ。僕たちと同じ瞬間に、"Ole!"って言ってもらえたらすごくうれしい。
Fern. 同じ瞬間を感じ共有するってことだもんね。
Nono. うん。クラスを受けてくれる人が心で感じながら理解も深められるようにできる限りのことをしたいと思う。そのために僕たちは日本に行くんだと思ってる。
And. もう二人が僕の分まで全部言ってくれたよ!(笑)
ー 日本のたくさんの人たちが皆さんによって へレスのプーロ・フラメンコ、ブレリアを感じてくださることを 願っています。 ありがとうございました。
Los 3. 日本で会いましょう!
■アーティストプロフィール
フェルナンド・ヒメネス・サンチェス  ( バイラオール )
1988年、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、サンティアゴ地区のヒターノ・ファミリア、バルガス家に生まれる。 叔父に亡きカンタオール、Jose Vargas (El Mono)を持つ。 母方の祖母は亡きカンタオーラ、Tia Anica la Pirinaca。 わずか1歳で初めてのパソを踏んで以来、ヒターノ・ファミリアの中でごく自然に普段の生活とともに踊り続けてきた。そんな彼のブレリアは絶品である。少年期よりサンティアゴ地区内のタブラオ、”タベルナ・フラメンカ”で踊り始め、現在にいたっては彼のグループと イギリス、フランス、アメリカなどで公演もしている。
アントニオ・カラスコ・サンタントン  ”ノノ・ヘロ” ( ギタリスト  )
1986年、ヘレス・デ・ラ・フロンテラ、サンティアゴ地区のヒターノ・ファミリア、カラスコ家に生まれる。父がギタリスト、Antonio Jero、叔父に Nino Jeroを持つ。8歳からギターを奏で始め、父、叔父とともにフラメンコと衣食住が一体となった人生を送っている。10歳の時には、彼が主役の映画に出演したり、その後、同じく”タベルナ・フラメンカ”にて演奏を始め、スペインやヨーロッパ各国のフラメンコ・フェスティバルにも出演している。
アンドレス・カブラレス・メサ  ”アンドレス・デ・ヘレス” (  カンタオール )
1964年、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、フェデリコ・マジョ地区(別名El Chicle チクレ)に生まれる。カンテフラメンコにたいへん愛好心を持っていた祖父の影響で幼少5歳よりチクレ地区、へレスのフラメンコメッカ、プラスエラ地区にある数々のバルや立ち飲み居酒屋タバンコに連れられ、今は亡き大家たちとのフラメンコを体験し、唄い始める。アグヘータ・ビエホ、ティオ・ボリーコ、チョコラーテ、アントニオ・マイレーナ、ディエゴ・ルビッチ、テレモト・デ・へレスなどのビエホ達に囲まれてフラメンコを体感してきた彼のカンテは、へレスのカンテ愛好家たちをもうならせる。